ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

今朝、路上で神様に出会った話

 突然だけど、僕は毎朝チャリンコ通勤をしています。今朝も会社に備蓄しておく食料をカゴに積んで、通勤ルートという名のサーキットを爆走していました。今思い返せば、少し寝過ごしたせいで、遅刻とは言わないまでもギリギリの到着になりそうな状況下にあり少し焦っていたのかもしれません。

 

 僕は、ちょうどサーキット半周に差し掛かる辺りで、うかつにも通勤レース最大の難所と呼ばれて久しい、あの魔の段差を見落としてしまったのです。

 

 これまで幾人もの高齢者を葬り去ってきた魔の段差。自治体の悪意の塊の、あの魔の段差。歩道と橋の境目に突然現れる、10cmの鋭利な魔の段差に、あろうことか真正面から突入するコースを選んでしまったのです。

 

 気づいた時には、目標まで1メートル弱の距離で、もはや進路変更は不可能。くそっ、こうなったらなんとか乗り切るしかない。僕は全身に神経を集中させて、この難局を乗り切る決意をしました。

 

 段差に直接タイヤがぶつかり、ガッコン!と前輪が上下に揺れ、その振動はフレームを伝わって僕の全身を震わせます。ちくしょう、負けるか、負けられるか。僕には会わなきゃならない人(上司)がいるんだ。ガッコン!次に後輪が段差にぶつかり、ボディを左右に激しく揺らし、僕の固い意志と熱い思いを打ち砕こうとしてきます。流れる汗、きしむ車体、暴れるハンドルを必死に抑える僕。ここを、ここさえ乗り切れば、僕は死んだって良い!だから今は、今だけは生ぎだい”!!(ドン!)

 

 そんな僕の強い思いが通じたのか、それともこの前道で拾い食いしたチャリンコノリノリの実の能力が発動したのかは分かりませんが、結果僕は幸いにもバランスを取り戻し、横転を避けることができました。

 

 その様子を見ていたのか、「マーベラス!」と、いつもこのあたりをうろついている通称ヘッドホンおじさんが叫んでいましたが、今日も小刻みに揺れてて怖いので目は合わせませんでした。ちなみにこの人は神ではありません。道路に現れるただの妖精です。そして、僕がやっとの思いで障害物を乗り越え、通常走行へ戻り加速をかけようとしたその時、悲劇が起こりました。

 

 おそらく激しい揺れでカゴの中で保たれていた絶妙な均衡が崩れたのでしょう。カゴの中でゆるやかに行われていた荷物の舞踏会が、魔の段差によって秩序を無くした死の舞踏会になり、舞台からダンサー達が飛び出してきたのです。

 

 端的に言えば、カゴの中身が四方八方に飛び散りました。

 

「あああーっ・・・」

 

 悲痛な声が自然と出ましたが、僕に悲しむ暇はありません。とにかく時間が無いのです。このレースに棄権や失格は許されていません。僕はブルーな気持ちのまま、スッと路肩に自転車を止めると、トイレ中の猫のような無表情さで横たわるダンサー達を回収し始めました。はぁ、ダンサーって何だよペットボトルとカップ麺じゃねーか僕は馬鹿か、今日帰ったら死のう。などと思いながら淡々と荷物を拾っていると、僕の後ろから声が聞こえました。

 

  「これも落ちてましたよ」

 

 ふと声の方向に顔を上げると、少しへこんだ僕のウーロン茶を手に持った青年がそこに立っていました。なんと僕がカゴの中身をばらまいたのを見ていたのか、わざわざチャリンコを止めて、それらを拾ってくれていたのです。

 

「あああ、ありがとうございますぅぅ・・・」

 

 突然の思いがけない親切さに、僕が腑抜けた声で感謝の意を返すと、いえいえと微笑みながらその青年は颯爽とチャリンコにまたがり、その場を去って行きました。

 

 僕は呆然として、まるで暗闇に突然スポットライトを当てられたような心地になり、唐突に現れた現人神の後ろ姿を、恋するベッキーのように、いつまでもいつまでもうっとりと見ていました。そのお姿には後光が確かに差しており、またがるチャリンコはペガサスのようでございました。

 

 これが、僕が今朝路上で目撃した、神の話こと神話です。ただの小さな親切を受けた話と思うかもしれませんが、その親切を受けた側によっては気色が悪いくらい感謝されていることもあるよ、という一例としてお納め下さい。

  

 

 

何も思い浮かばないからフリーザ様を描いた

 今日は、ブログに書きたいことが特にありません。何か無理に書くとしたら、せいぜい昨日焼き鳥屋で見かけた、顔は可愛いけど性格が肥溜めで産まれたウジ太郎並に最悪な女子大生二人組の悪口くらいしか書けないのですが、思い出すと口から肥料がこぼれ落ちてきそうなくらい気分が悪いのでやめておきます。ちなみに肥溜めから産まれたウジ太郎は、肥溜めで作られた堆肥を手から出して畑を豊かにしてくれる妖怪です。しかし村の子供達を見かけると、全力で追いかけてきて顔に両手を押し付け、子供達が泣き叫び嫌がる顔を見るのが大好きな、そんな大変迷惑な妖怪です。

 

 書きたいことが無いからと言って、何もしないのもつまらないので今日は僕の大好きなフリーザ様を描きました。

 

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イラストや漫画を描くのがブログ界での成功の秘密と聞いたので、これで成功者になれるかと思いワクワクしています。よろしくお願いします。

 

人のブログ読むのが面白いって話

 一体どうなってるんだ最近のインターネットの世界は。下は中学生から上はお年寄りまでアホみたいにモリモリブログを書いてるじゃないか。もしかして僕の知らない間にブログは趣味を超えて国民の義務になったのか?

 

 思えばブログをはじめてから、自ら積極的に人のブログを読む機会がなかったので、僕のブログに来てくれた物好きな方のお気に入りブログなんかを読み、さらにその人のお気に入りをという形でブログめぐりを繰り返してたら、底知れぬインターネットの広さを思い知らされてしまった。

 

 インターネット、全世界に繋がってるのはもちろん知ってた。知ってたけど、本当この広さは無限大だな!これまで僕が観測する範囲が狭かっただけで、視野を広げたらものすごい数の人がインターネッツでブロガーをしてるのだ。

 

 ダダダーッと時間も忘れてサーフィンしてるだけでも、東京でシャレオッティな写真を撮って上げてる人、主婦の日常を書いてる人、激務で疲れ果ててるリーマンさんなんかが、普段溜め込んでいる己のリビドーを、シャワー機能がぶっこわれた園芸用ホースのようにビシャビシャとブログに撒き散らしているじゃないか。面白れー!噂には聞いてたけど、人間ってみんなちゃんとそれぞれの人生を生きてるんだ!哲学的ゾンビなんか存在しないんや、自我と欲求の詰まったたんぱく質、それが人間!

 

 普通に生きてたら知ることのなかったような人の、大切にしているペットや家族との思い出、これからの夢なんかが垣間見れてすごく面白い。なんというか、のぞき趣味の変態の気持ちが分かった気がする。絶対この人の認識してるインターネットの範囲外の人間である僕が、うっかり迷い込んでその人の心の見ちゃいけないようなものを覗き込んでしまったような、そんなドキドキを感じるというか、悪いことをしている気分になって勝手に焦ってしまう。そんな小動物のように震える小心者で可愛い僕を愛でるがよい。痛い、石投げないで。

 

 ともかく当分の間は、呼ばれてもない人の家にうっかり迷いこめちゃう不思議な世界を楽しもうと思う。それにしても皆が自分を発信するのが当たり前の時代とはいえ、面白いと同時にやっぱり少し怖えーな、インターネット。

 

 

↑これすぐ内部で絡まってダメになんだよね。

文章を書く上で圧倒的にインプットが足りてない話

 特に他人のブログで綴られる端正な文章を見るようになってから、そう思うことが多い。言葉というものにちゃんと向き合ったことがなく、文字で気持ちをあらわすことをしてこなかった僕の文章は、頭の中に浮かぶグラデーションをそのまま表現できない大変陳腐なものだ。僕はもっと、ぐにょんぐにょんでハッピーでバイブスのアガるアヘアヘなアレをこうした文章を書きたいんだ、わかるだろ?

 
 こんな陳腐な文しか書けない陳腐脳みそで、どうやったら陳腐さを消して陳腐ブログから脱出陳腐できるかを三日三晩寝ずに陳腐に必死に考えた結果、出てきたのは、本を読めば頭良くなって文章も陳腐じゃなくなるかもしれないゾ、あとそろそろコロコロローラーの替え芯買わなきゃお部屋が汚くなるチンプー、という陳腐な心の声だった。仕方がない、僕のちん〇な脳みそから出てきたアイデアを今回は尊重することにしよう。
 
 思い返せば、あまり本を読まない人生だった。中学時代は本などろくに読まなかった。やることといったらネットに齧り付き、テキストサイトで毒電波を全国の社会不適合者たちから吸収することくらい。ある意味文字に触れる機会は人一倍あったと言えるかもしれないが、日々ネットで大量の文字を読んだところで得られるものなんて何もない。むしろ正しい日本語が脳からパージされて、ファンキーな日本語が身に付き2ちゃんねるによって嫌韓女性蔑視の卑屈野朗が出来上がるというマイナス面しかないのだ。そんなこんなで僕の日本語は多感な時期にネットの影響を受けていびつな進化を遂げた。唯一為になったことがあるとすれば、エネマグラオナホールという名の性具があることを知り、周りの大人が絶対に教えてくれない画期的な自慰の可能性が世の中にはまだまだあふれていることを教えてくれたことだろう。早く大人になりたいという動機を僕に与えてくれてありがとう!顔も知らない大人たちよ。
 
 そして高校時代、孤高の存在となりつつあった僕は、サブカルに生きる場所を見出し始めていて、昼休みに青空文庫での古きよき名作の読み漁りをしていた。無料であれだけの作品読めるのは嬉しいね。カラマーゾフの兄弟の続きいい加減出してください。
 当然のごとく中二病だった僕は、太宰治が好きになった。人間失格を四回読み直して「これは僕のことを書いている・・・」とやけに感動して、人生を達観した気になって、内心周りを見下していた。今思えばだけど、いけ好かない野朗に映っていたことだろう。確かに何も偉くないのに偉そうなヒョロガリがいりゃ、いじめられもするわな!
 
 その後大学に進学せずそのまま社会に出た僕は、思えば数える程しか本を読んでいない。読んでもラノベくらいのもんで、そりゃあ文章もこんなに陳腐にだってなるはずだ。とにかく僕には圧倒的に良質なインプットが足りていないのだ。僕の脳にインストールされている文字入力ソフトのエンジンは、数多のインターネットの落書きと、青空文庫のいくつかの作品だけ。あぁ、もっと当時読書の習慣を身に付けておけばよかった。世界の中心でさけんで蛇にピアスをして背中を蹴ればよかった。まあ今更後悔しても青春は戻ってこないし、もし戻ってきたらきたでそこら中に吐瀉っちゃうので戻ってこなくてもいいのだが。
 
 とにかく陳腐な脳みそは今更読書を欲している。今からだろうと読まねばなるまい。表現力の陳腐な僕なりに、陳腐な悪あがきをすべきなのだ。まずは正しくて美しい日本語を覚える為に村上春樹とか読めばいいんでしょ、僕がんばっちゃうんだからッ!
 
 

カブドットコム証券のCMを苦虫噛み潰しながら見てる話

 

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 最近テレビで見る稲垣吾郎カブドットコム証券のCM、ああ素晴らしい株の世界~とか自分が負けてるのもあって「そんなお気楽で素晴らしいもんじゃねえよッ!」と思ってしまう。

 

 しかしCMとしては100点だ。今日一日中、僕の脳内で稲垣メンバーが愉快なリズムにのせて逆お姫様抱っこし続けられている。ああ素晴らしい株の世界!生きててよかった!生きてて良かった!ありがとうございますありがとうございます!カブドットコム証券様!ありがとうございますありがとうございます!と真っ暗な部屋で東京都千代田区大手町1丁目3-2経団連会館の方角に向かって礼拝を続けるだけのカブドットコム廃人、それが今日の僕だ。

 

 そう、驚異的中毒性を持つキャッチーなメロディと稲垣メンバーの爽やかな歌声はCMとしては100点だ。100点なのだけど、これをきっかけに口座開設するような層が、崩壊直前のアベノミクス相場に飛び込んでくるのが不憫でならない。

 

 爽やかで楽しいCMとは裏腹に、実際の相場はシビアで大抵の場合恐ろしいものだと僕は知っている。だからか最近証券会社のCMを見る度、その現実とのギャップを感じ、全盛期のサラ金のCMを被せてしまう僕がいる。サラ金全盛期、少年だった僕は消費者金融の意味なんか知らず、耳に残るキャッチーなCMソングを覚えて「ラララ無人君~ラララ無人君~ララララ~」なんて歌いながら学校に登校していたのを覚えている。武富士ダンスなんかも流行してて、バラエティ番組で何度もパロディ化されていたもんだから、皆で休み時間に真似して遊んだりもしたものだ。

 

 しかし、どれだけデコレーションして飾っても所詮はサラ金。ご利用を計画的にしようが、歌おうが踊ろうが、借金は借金だ。別に借金が悪いとは言わないが、CMのイメージと実体はかけ離れているのは誰もが知っているはず。もちろんそれがCMの狙いだろうけどね。

 

 国策のジュニアNISAも始まって、既に証券口座開設を勧めるCM広告もバンバン増える一方だけど、楽観や希望でデコレーションされていない生の相場の恐ろしい部分を知っている人達は、きっと同じようにCMを見る度に複雑な気分になるのではないだろ株を買うならカブドットコム~♪株を売るならカブドットコム~♪

 

 

脳のブレーキをぶち壊したい話

 脳のブレーキが効きすぎてる。それが僕の悩みの一つだ。常識と理性の檻に囚われているうちは何も面白いことは起きはしないと分かっていても、遺伝子レベルに染み付いた本能で、危険と不安を回避しようとする傾向が僕にはある。
 
 昔深夜の馬鹿力で、立川談志が笑いについて、誰しも子供の頃にあった、支離滅裂意味不明の思考と発想こそが根源であると言っていた。夢のように前後も空間も飛び越える異常、もしかするとそれこそが普通の状態であって、この世界は作られた常識によって普通が隠されているだけなのではないかと言っていた。
 
 その通りだと思った。どいつもこいつも、口癖のように何か楽しいことねえかな?などと繰り返しながら皆気づいているんじゃないか?自分の中のどこかに眠っている、支離滅裂意味不明の根源的な何かに気づいている癖に見えないふり。常識を知っているふりしてマトモをとり繕ってるだけなんじゃないか。
 
 もっと人間は面白いはずだ。何かとんでもないことを人間は隠しているはずだ。そんな期待を、自分ではない他人や作品なんかに向けて、肝心要の自分を見ていないんじゃないか。もったいない、もったいない。
 
 ブレーキをぶち壊す、そのための鍵がどこかにあるのだ。それは狂気だったり、中二病であったりするのかもしれないが、僕を根源に近づける何かが。あとちょっと、もうちょっとで掴めそうなのだけど。
 
 

ミニマリストという贅沢

 物を捨てる余裕があるというのは幸せなことだ。僕が以前実践した”ミニマリスト”も、物の所有に選択権がなければそもそも理解の出来ない概念なのだ。

 

 物を取捨選択すること自体、最高に幸せで贅沢なことなのかもしれない。そう思ったのは、社会主義国キューバで見た“物を持てない人々”の生活を目の当たりにしたときだ。彼らは国が最低限の衣食住を保証しているので、死に直結するような貧困や飢餓にはあえいでいない。ゆえに僕は、キューバの人々は生活の心配がなく暖かな気候の中、皆がのびのび幸せに暮らしているんだろうと思っていた。

 

 しかし冷戦期ならともかく、今は発展した資本主義経済の下、世界中に物や金が溢れている。当然キューバ人も情報統制はあるとはいえ、絶えず訪れる観光客を間近に見ており、国外との格差に気づいている。ゆえに、常に物と金に不足を感じているのが目に見えていて、何かを得ようと必死。街を歩くとその帽子、Tシャツをくれくれとねだってくる彼らは、お世辞にも幸せそうには見えなかった。中心街ではしつこく葉巻を買え、女を買えと迫ってくるし、街で挨拶を返せば何割かが、当然のように飯屋を指さし何かおごってくれと言ってくる。そして断るとケチ!とばかりに露骨に嫌な顔をする。一方革命広場裏の観光客のあまり来ない街へ行くと、国から支給された住居と配給で最低限の暮らしをする人たちが暮らしていた。どんよりと曇った目で軒先に座り、生殺しの生活で気力が失われているのか、話しかけても全く無反応で生気がない。道路を無邪気に走り回る子供たちとは対照的に無表情で空を見つめる大人たち。あの重たい空気が忘れられない。

 

 僕は物があって当たり前の生活の中、際限なく沸いてくる自身の物欲に疲れてしまい、ミニマリストという概念に惹かれ、自分なりのゴールに到達した。しかし、このミニマリストという概念自体、その前提に豊かな社会の中、物を所有すること自体への疑問を抱いた人々が一定数居るからこそ成り立っている。それは以前流行った断捨離も同じだろう。ただ物を捨てれば幸せになるなんて魔法みたいなことはない。物を捨てる過程でいかなる気づきを得て自分を楽にするのかが大事であって、逆にそれに気づければミニマムだろうがマキシマムだろうがなんだっていいと思う。

 

 ここまで書いて、最後に綺麗にまとめようと思ったのだけれど、オシャレな言い回しが思いつかない。苦し紛れにトイレットペーパーをダブルからシングルにするミニマリストライフハックを紹介しようかと思ったけど格好つかないのでやめた。今日も地球は平和だ。