ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

ミニマリストという贅沢

 物を捨てる余裕があるというのは幸せなことだ。僕が以前実践した”ミニマリスト”も、物の所有に選択権がなければそもそも理解の出来ない概念なのだ。

 

 物を取捨選択すること自体、最高に幸せで贅沢なことなのかもしれない。そう思ったのは、社会主義国キューバで見た“物を持てない人々”の生活を目の当たりにしたときだ。彼らは国が最低限の衣食住を保証しているので、死に直結するような貧困や飢餓にはあえいでいない。ゆえに僕は、キューバの人々は生活の心配がなく暖かな気候の中、皆がのびのび幸せに暮らしているんだろうと思っていた。

 

 しかし冷戦期ならともかく、今は発展した資本主義経済の下、世界中に物や金が溢れている。当然キューバ人も情報統制はあるとはいえ、絶えず訪れる観光客を間近に見ており、国外との格差に気づいている。ゆえに、常に物と金に不足を感じているのが目に見えていて、何かを得ようと必死。街を歩くとその帽子、Tシャツをくれくれとねだってくる彼らは、お世辞にも幸せそうには見えなかった。中心街ではしつこく葉巻を買え、女を買えと迫ってくるし、街で挨拶を返せば何割かが、当然のように飯屋を指さし何かおごってくれと言ってくる。そして断るとケチ!とばかりに露骨に嫌な顔をする。一方革命広場裏の観光客のあまり来ない街へ行くと、国から支給された住居と配給で最低限の暮らしをする人たちが暮らしていた。どんよりと曇った目で軒先に座り、生殺しの生活で気力が失われているのか、話しかけても全く無反応で生気がない。道路を無邪気に走り回る子供たちとは対照的に無表情で空を見つめる大人たち。あの重たい空気が忘れられない。

 

 僕は物があって当たり前の生活の中、際限なく沸いてくる自身の物欲に疲れてしまい、ミニマリストという概念に惹かれ、自分なりのゴールに到達した。しかし、このミニマリストという概念自体、その前提に豊かな社会の中、物を所有すること自体への疑問を抱いた人々が一定数居るからこそ成り立っている。それは以前流行った断捨離も同じだろう。ただ物を捨てれば幸せになるなんて魔法みたいなことはない。物を捨てる過程でいかなる気づきを得て自分を楽にするのかが大事であって、逆にそれに気づければミニマムだろうがマキシマムだろうがなんだっていいと思う。

 

 ここまで書いて、最後に綺麗にまとめようと思ったのだけれど、オシャレな言い回しが思いつかない。苦し紛れにトイレットペーパーをダブルからシングルにするミニマリストライフハックを紹介しようかと思ったけど格好つかないのでやめた。今日も地球は平和だ。