ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

お尻からお水が止まらない話

 僕は昔から腸が弱い。

 腸にまつわる最も古い思い出は8歳の頃。24時間テレビの地方イベント会場がその現場だ。

 そう、今じゃコロナのせいでお目にかかれないけれど、毎年夏になると24時間テレビの催しが全国で行われていた。地元金沢も例外ではなく、中央公園と呼ばれる中心市街にある大きな公園に黄色いTシャツ姿の人々が、紙で出来た募金箱を持って集まっていた。ちなみに今では感動ポルノだとかパーフェクトヒューマンだとか、散々茶化されがちな同番組だが、僕にとっては、夏の風物詩と原風景を提供してくれた存在でもあり、嫌いではない。

 特に今は亡き祖母は24時間テレビが大好きな人で、祖父の運転する壊れかけの軽自動車に乗った僕と祖父母は、夏になると必ず中央公園に行き、祖母が一年かけて貯めた10円玉がカンカンに詰まった訳分からん地銀キャラクターの貯金箱を、地球を救う愛の使者に捧げにいくのが定例行事となっていた。

 そんな大規模なイベントにはつきものなのが、沢山のテキ屋の屋台だ。会場たる中央公園の周囲には、前日からテレビ局と何の関係もないテキ屋群がずらりと並び、ギラギラ光ってクルクル回転するだけの祭りの日にしか見ないチープなおもちゃ、取らせる気のないプレステやゲームボーイを陳列していた。あれは子供の脳を狂わせる、子供パチンコだった。

 あと、大人になった今でも祭りに行くと不思議と美味そうに見えてしまうのが、どうしようもない適当な味付けの焼きそばや、可食部の比率の小ささ食品会No1のリンゴ飴。そして、お待たせしました今回の主役、焼きが甘すぎる焼き鳥だ。

「おばあちゃん! 鳥たべたい!」

 なんてキュートな孫に言われれば、買い与えるのが祖父母の定め。一本250円のぼったくり価格も何のその、3本買って眉毛のない兄ちゃんに紙コップに入れて渡されたその串焼きは、(祖母の金だが)今日おれは募金をしたんだぞという満足感と祭り特有の華やかな雰囲気も相まってとても美味しかったことを覚えている。

 そんな嬉しそうな孫を見て倍嬉しそうな顔をする祖父母も、数時間後に呪いの言葉を吐き続けられるとは思ってもいなかったろう。

 

『ヘームヘムヘム!』

 経験したことのない異常な腸のぜん動が始まったのはテレビで忍たま乱太郎が終わる頃だ。僕の運命を知ってか、いたずらに笑うヘムへムの鳴き声と共に、僕の戦いは幕を開けた。

「んぎゃああああああああ!!!!」

 中心市街地に近い祖父母の家に泊まった僕は、文字通りのたうち回るような苦しみを世界に向かって表現するようにソファベッドの上で卍型になって回転していた。口は一文字、涙はとめどなく、鼻水は乾き始めている。同じ焼き鳥を食べても平気だった祖父母はオロオロとするばかり、回転を止めて身体を丸めている僕の背中を祖母はさすってくれるが、

「さ、触るなああああ!! 今すぐ助けてえええ!!」

 腹痛に始まり身体中が爆発しそうな苦しみにもだえ支離滅裂な言動を始める僕。

「お前のせいだあ! お前らのせいだっ!!」

 当時から口の悪かったカンピロバクター感染クソガキこと僕は、陶器の古い洋式便所に祖父母への呪詛と一緒に胃液を吐き、またソファベッドに戻っては卍回転を始めるローテーションに入った。もはや時刻は23時過ぎ、8歳児にとって大人の深夜4時半くらいの起きていてはいけないトワイライトゾーンへ。

「もう”やだ! 二度と会わな”い来ない”!!」

 あろうことか祖父母との絶縁すら宣言しながら、たまたま右横向きになって丸まった姿勢でいることがギリ楽だということを見つけると、僕は意識を失うまでそのままの姿勢でさらさらと涙を流し続けた。

 翌日昼過ぎ、両親が迎えに来る頃には不思議とケロッと収まっていたその食中毒。クソガキ特有の手のひら返しで意気消沈する祖父母にまた来るねばいばいと元気に手を振った僕は、なんと翌年と翌々年、2年連続で危険そうな屋台グルメにむしゃぶりついては右横向きの姿勢で呪詛を吐くことになるのだった。食中毒に薬はあるが、バカに付ける薬はないというのか。

 

 その後も癖になったかのように2年に一度くらいのペースで腸炎になるのが僕の人生で、それでもここ4,5年は鳴りを潜めていたのだけれど、一昨日から僕は医者から貰った薬を飲んで横向きになりながらさらさらと涙を流す日々を送っている。

 リスクとベネフィットを正確に早口で伝えてくれる地元の名医に一週間以内に焼き鳥を食べた覚えはないかと聞かれて、走馬燈のように思い出が脳裏を横切り、思わず苦笑いを浮かべるしかなかったのである。本当に神様助けて。