ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

脳のブレーキをぶち壊したい話

 脳のブレーキが効きすぎてる。それが僕の悩みの一つだ。常識と理性の檻に囚われているうちは何も面白いことは起きはしないと分かっていても、遺伝子レベルに染み付いた本能で、危険と不安を回避しようとする傾向が僕にはある。
 
 昔深夜の馬鹿力で、立川談志が笑いについて、誰しも子供の頃にあった、支離滅裂意味不明の思考と発想こそが根源であると言っていた。夢のように前後も空間も飛び越える異常、もしかするとそれこそが普通の状態であって、この世界は作られた常識によって普通が隠されているだけなのではないかと言っていた。
 
 その通りだと思った。どいつもこいつも、口癖のように何か楽しいことねえかな?などと繰り返しながら皆気づいているんじゃないか?自分の中のどこかに眠っている、支離滅裂意味不明の根源的な何かに気づいている癖に見えないふり。常識を知っているふりしてマトモをとり繕ってるだけなんじゃないか。
 
 もっと人間は面白いはずだ。何かとんでもないことを人間は隠しているはずだ。そんな期待を、自分ではない他人や作品なんかに向けて、肝心要の自分を見ていないんじゃないか。もったいない、もったいない。
 
 ブレーキをぶち壊す、そのための鍵がどこかにあるのだ。それは狂気だったり、中二病であったりするのかもしれないが、僕を根源に近づける何かが。あとちょっと、もうちょっとで掴めそうなのだけど。
 
 

ミニマリストという贅沢

 物を捨てる余裕があるというのは幸せなことだ。僕が以前実践した”ミニマリスト”も、物の所有に選択権がなければそもそも理解の出来ない概念なのだ。

 

 物を取捨選択すること自体、最高に幸せで贅沢なことなのかもしれない。そう思ったのは、社会主義国キューバで見た“物を持てない人々”の生活を目の当たりにしたときだ。彼らは国が最低限の衣食住を保証しているので、死に直結するような貧困や飢餓にはあえいでいない。ゆえに僕は、キューバの人々は生活の心配がなく暖かな気候の中、皆がのびのび幸せに暮らしているんだろうと思っていた。

 

 しかし冷戦期ならともかく、今は発展した資本主義経済の下、世界中に物や金が溢れている。当然キューバ人も情報統制はあるとはいえ、絶えず訪れる観光客を間近に見ており、国外との格差に気づいている。ゆえに、常に物と金に不足を感じているのが目に見えていて、何かを得ようと必死。街を歩くとその帽子、Tシャツをくれくれとねだってくる彼らは、お世辞にも幸せそうには見えなかった。中心街ではしつこく葉巻を買え、女を買えと迫ってくるし、街で挨拶を返せば何割かが、当然のように飯屋を指さし何かおごってくれと言ってくる。そして断るとケチ!とばかりに露骨に嫌な顔をする。一方革命広場裏の観光客のあまり来ない街へ行くと、国から支給された住居と配給で最低限の暮らしをする人たちが暮らしていた。どんよりと曇った目で軒先に座り、生殺しの生活で気力が失われているのか、話しかけても全く無反応で生気がない。道路を無邪気に走り回る子供たちとは対照的に無表情で空を見つめる大人たち。あの重たい空気が忘れられない。

 

 僕は物があって当たり前の生活の中、際限なく沸いてくる自身の物欲に疲れてしまい、ミニマリストという概念に惹かれ、自分なりのゴールに到達した。しかし、このミニマリストという概念自体、その前提に豊かな社会の中、物を所有すること自体への疑問を抱いた人々が一定数居るからこそ成り立っている。それは以前流行った断捨離も同じだろう。ただ物を捨てれば幸せになるなんて魔法みたいなことはない。物を捨てる過程でいかなる気づきを得て自分を楽にするのかが大事であって、逆にそれに気づければミニマムだろうがマキシマムだろうがなんだっていいと思う。

 

 ここまで書いて、最後に綺麗にまとめようと思ったのだけれど、オシャレな言い回しが思いつかない。苦し紛れにトイレットペーパーをダブルからシングルにするミニマリストライフハックを紹介しようかと思ったけど格好つかないのでやめた。今日も地球は平和だ。

 

 

メディアクリエイター達には好きに名乗らせておけばいい

 最近一部のネット界隈の、更にその一部のブログ界隈の大学生が「ブロガーって何かダサいし、イケてる私達に相応しい呼称を作っちゃえ、せーの僕達(私達)メディアクリエイターで~す!」という宣言をしたらしく、そのメディアクリエイター達を取り囲むようにネット亡者達が賛否両論を投げかけているらしい。

 

 そんな面白そうな話題に乗らない手はない。僕もネット亡者の一人として群衆に交じり、早速調子乗ってるメディアクリエイターとやらに石を投げつけてやろうと思い、偏ったバイアスをかけながら界隈の議論を石ころ片手に読んでみたんだけど、なんだか調べるうちに途中でしらけて石ころは捨ててしまった。

 

 どうやらメディアクリエイターと名乗る彼らは、いわゆる“ミニマリスト”のように既存の概念を昇華させた訳でもなく、ネット上に全く新しい概念を生み出したという訳でもない。ただ「ブロガーって呼称を格好良くしたい」という上っ面をよく見せたい気持ちがまずありきで、「呼称を変えるからにはブログを書く以外に色々なんか素敵なことをしていきたいね!各自やっていこうね!」という実にふわっとした、定義以下のものを宣言しているだけのようなのだ。こんなもん好きにやらせておけばいいだろう。各自で気持ちよくなってくれればいい。

 

 そもそものメディアクリエイターという呼称自体が格好良いかどうかについては、僕はマクドナルドのペポパだかブボボだか並にダサいと思うけど、別に使用を止める意味もないし、外野がうるさく否定すべきことじゃないと思う。むしろ真顔でこのへんてこな肩書きを自称する意識高い系が増えたら面白くなりそうなので、じゃんじゃん名乗っていってほしい。

 

 しかし、よく読むとどうやらこの話が大変盛り上がっているのには、単にブログ書くマンたちの呼称をどうすべきか、という一点が問題にされているのではなさそうなのだ。事の発端を探ると、自称メディアクリエイターの大学生がブログで、“メディアクリエイターを否定する奴らは、みんなダサくて頭の固いおっさんだ”となぜか若者VSおっさんという構図を作り上げ、無差別攻撃の大きなバズーカをぶっ放したことに起因しているようだ。そして案の定ブログを書くおっさん含む、普通の判断力のある人達に囲まれた彼のブログは発火炎上。結局いつものように、ネットでバランス感を見誤って炎上した人を、みんなが面白がって見物に来ているというだけの現象だった。

 

 やっぱりインターネットで気持ちよくなるのは難しい、インターネットは全世界に繋がっていることを忘れてはならない、という教訓を僕は得た。それにしてもメディクリ大学生は、炎上という形であれ僕のような末端にもメディアクリエイターというふわっとした概念を知らせることに成功した訳だ。羨ましい。僕もいつか、テキストサイト管理人という、ナウでイケてる呼称を無理矢理ブロガーを指すものとして復活させて、インターネットで気持ちよくなりたいと思った。

 

まだ積雪で消耗してるの?

 月曜の朝、またお仕事へ行く時間がやってきた。休日に夜更かしをする癖が昔から抜けなくて、土日で崩れた睡眠バランスのツケを未だに月曜日一括精算している。要するに眠くてチョベリバだ。外からざあざあと雨音が聞こえる。うーむ、音から判断するにかなり大降りみたいだ、今日はバスで行こう。いつものように眠たい目をこすりながらテレビを付けると、NHKで毒にも薬にもならない、ある意味朝ドラらしい朝ドラが流れていたのでザッピングしてニュース番組に変えた。

 

 ニュースでは昨夜関東で雪が降ったことに触れていて、一晩で積もった雪に東京が大混乱している様子を映していた。女性レポーターが、ご覧くださいと大声で叫びながら雪化粧をした渋谷かどこかに立っていたが、雪国育ち除雪機持ってる奴大体友達の僕には、一体何をご覧になるべきなのかがさっぱり分からない。毎年東京で雪が降る度にテレビで大騒ぎしてるけど、こいつらはいつになったら雪に飽きるんだろうか。朝から気分が急速に冷めていく。僕が人間でなく気体状の生き物だったら、テレビとの間に台風の目が発生すると思う。そんな僕をおいてけぼりにして、場面は電車の来ない駅で立ち往生している人達へのインタビューへ移り変わり、公共交通機関が麻痺していて、休校となる学校もあると深刻な調子でナレーションが入った。

 

 なるほど、交通機関が麻痺してるのね、それならこの混乱も仕方がないのかもしれない。きっと僕の感じる温度差は、思慮の足りない田舎もん特有の浅はかさから来るもので、超先進都市TOKYOの人たちは積雪によって社会に実害が出ることを恐れているからこそ、こんな大げさな報道の仕方になるんだろう。地下鉄もない地方に住む僕には、その想像がつかないから気持ちが冷めてしまう訳だ。やっぱ都会って大変なんだな、と思いながら歯を磨きにいった。

 

 歯をピカピカにしてテレビの前に戻ってくると、今度はレポーターが興奮した様子で雪だるまを作りだす様子や、5分も傘をささなかっただけでこんなに雪まみれになりました-!と、うっすら雪の積もったレポーターの頭をカメラがアップで映していた。な、なんだこれは、この映像は必要なのか。イライラする、めっちゃイライラする。何だこのイライラ。やっぱりこいつら雪が降ったことの珍しさに対して大騒ぎしてるだけなんじゃないのか。だがしかし、なんで僕がこんなイライラする必要があるんだ。あぁ、この気持ちは高校の頃、クラスのリア充達が意味の違ったネットスラングを使っているのを聞いた時のもどかしさに少し似ている。ひたすら顔を伏せて寝たふりをしながら、ああああああああああああああああああ!と心で叫んでいた時のあのもどかしさに似ている。君たちそれは違う、ワロタとは現在ないし過去完了形であり

 

「お前それワロタだな」

 

という使い方は通常しないんだと言いたかったあの気持ちに似ている。しかし、僕のような身分の低い卑しい民とスクール貴族であらせられる高貴な運動部の方々の間には日本海溝よりも深い溝があって、直接そのような親しい間柄のようなお言葉を、僕が貴族様と交わせるはずもございませんと疑似睡眠を続けた時のあの悔しさに似ている。うん似ている、確かに似ている。というかこれだ。

 

なるほど、分かった。

 

 僕は何だかんだいって、東京にキラキラした何かを、憧れという名の幻想を抱いているのだ。人も物も何でも揃っている東京が、空気が悪いだの人が多くて疲れるだのと言ってみるものの、やっぱり羨ましくて仕方ないのだ。だからいつもは地方の豪雪なんてよっぽど酷い時くらいしか報道しないのに、自分のことになると数センチの積雪でも大げさに報道する東京に、もっとアタシを見てと、思春期の女のように愛情にも怒りにも似た複雑な感情を抱くのだろう。この気持ちは、きっと恋心のようなもので、そこに理屈なんて存在しないんだ。コンプレックス?ソレチガウ!恋心だ!

 

 自分のホントウノキモチに気づいた僕は、大好きな人に想いを伝えられなくて、遠くから校庭で仲間達と楽しそうにしてるアイツを見つめる少女の目になった。この気持ちは届かないんだろうな。でもいいんだ、アイツが嬉しそうにしてる顔が一番好きなんだもん。

 

 寝間着姿でうっとりとニュースを眺めていると、ふと左上の時刻が気になった。よく見るといつもバスに乗る時間をとっくに過ぎている。終わった、田舎の公共交通機関は雪が降ろうが降るまいが一時間に2本しかないのだ、不便すぎる。その癖大雨が降ろうが豪雪が降ろうが皆平気で徒歩や自転車で来たりしやがるから天気のせいにして通勤できませんでした、などと泣き言は言ってられない。

 

 とにかく遅刻する訳にはいかないと、爺さん譲りの自転車に飛び乗りフルスロットル出勤をした。結果仕事場にはギリギリで間に合ったものの雨の中走ったんで全身びっしょびしょ、路肩に残った雪にタイヤがとられてすってんころりん手のひらずんどこべろんちょした。もう東京とか雪とかどうでもいいから、運転手付きのベンツが欲しい。

 

 

 

美味しいコーヒーを飲んでみたい

 僕は一日3、4杯ほどコーヒーを飲む。大体は職場にある何年経っているかも分からない古いコーヒーメーカーで作ったコーヒーを、砂糖も入れずに飲む。そして湯気を見つめながら毎回思う、「うん、めっちゃ不味い」と。

 

 この不味さは、洗っても落ちない汚れがこびりついたコーヒーメーカーを使っているせいかもしれない。でも思い返してみれば、そもそも僕はコーヒーを飲んで心の底から美味しいと感じたことが今まで一度もないのだ。もちろん砂糖やミルクを入れると、多少飲める味にはなる。けれど、コーヒー本来のあの味を美味しいと思えない。現状僕は、美味しくもない飲み物を、カフェインで脳みそをパキっと覚醒させる為だけに飲んでいる。毎日自問自答しながら不味い飲み物を飲み続ける。単純にこれは不幸だと思った。

 

 もし世の中の人達がコーヒーを、青汁のように不味いけど健康に良いものととらえているなら僕は不幸を感じることもなかっただろう。しかし、現実にコーヒー愛好家は大変多く、町には美味しいコーヒーを煎れると評判のカッフェーがこれでもかと言わんばかりに溢れている。全国の繁華街には、スターバックスが必ずあるし、そこでサブカル女や調子に乗った大学生達(ファッキンスチューデンツ)が、コーヒーと一緒にパサパサのサンドイッチを頬張りながら、昼も夜もマックブックを広げて、へーこらへーこらフェイスブックにしょうもない文章を打ち込んでいる。そう、一般的にコーヒーは美味しくてお洒落な飲み物と認識されているのだ。それなのに僕の味覚ときたら。もしかして僕の口はまだお子ちゃまで、コーヒーを美味しく感じる細胞が未発達なのだろうか。それとも口の中に住んでいる直径3センチの寄生虫が、美味しいコーヒーを代わりに吸収して、ケツから苦い汚水を噴出しているのだろうか。ちくしょう、僕は皆と同じようにコーヒーを美味しく飲んでみたいんだ。

 

 正直言って、僕がコーヒーを飲んでいる理由は、やっぱりカフェインの摂取の為だけではないみたいだ。僕の中には、コーヒーはお洒落で格好いい飲み物というイメージがあって、そのイケてる飲み物をカジュアルに飲めるイケてる人間になりたいと思いがどこかにあるのだろう。きっと僕は、コーヒー愛好家という自分の中ではイケてる人間になって、行きつけの喫茶店でチョビヒゲのマスターに人生訓という名の一方的な価値観を押しつけられ、コーヒー並に苦い笑顔を浮かべてみたいのだ。

 

 僕は今も、この文章を書きながら不味いコーヒーを飲んで胃を悪くしている。今年こそイケてる大人になるため、本当に美味しいと思えるコーヒーと巡り会いたい。そのためになら、黒縁丸メガネに下北で買った古着を着て、マックブック片手に市内の町屋カフェなんかを巡り、インスタグラムでポラロイド風の加工をした、クソ気取った写真を投稿することすらも辞さないし、コーヒーを司る神に供物として山羊10頭すら差し出しても構わない所存である。

 

今週のお題「今年こそは」

 

 

STARBUCKS スターバックス 大型 旧ロゴ マウスパッド
STARBUCKS スターバックス 大型 旧ロゴ マウスパッド

 

承認欲求が満たせない

僕は人の日記を読むのが好きだ。

 

ネットには、テキストサイト全盛期の頃から今に至るまで、僕の知らない人達の嘘か本当かも分からない日常の話や、過激で狂った出来事の話が溢れている。こんな面白いものを読まないのは損だ。ほぼ全てが無料で読めて、時に恐怖したり、時にゲラゲラ笑ったり、時にトーテムをポールさせたり出来る。僕は、そんな人達の日記を自由に読める時代に産まれたことに感謝したい。

 

ただ、そんな楽しい日記も、自分でそれを書くとなると話は変わってくる。語彙力や文章力のない僕にとって、何もないところから文章をひねり出すのは、ただただ苦しい行為だ。一度書き出すことさえ出来れば、流れにのって脳みそからぶちゅるぶちゅると言葉は出てくるのだけれど、何も出てこない時は謎の自己嫌悪で気分が暗くなる。いつも僕を楽しませてくれていた、物書き達への尊敬は日々高まるばかりだ。技術的な面以外でも、僕にとって自分自身の気持ちや体験を文字に起こすことは、匿名とはいえ公共の場で裸踊りをするような抵抗がある。自分のことを書くのは恥ずかしいものだ。

 

それでも僕は日記を書く。なぜなら色々理由はあるけれど、一番は僕の承認欲求の為だ。僕の承認欲求は人一倍強くて、きっと承認欲求を得る薬があったら一日100本打つし、崖から落ちそうな恋人と承認欲求が居たら承認欲求を救い上げるし、承認欲求を満たしてくれる代わりに、どこかの誰かの足の裏が魚の目だらけになるボタンがあっても迷わず毎秒16連打するだろう。最近僕の手が常に震えているのもアル中だからじゃない。認めて欲しくて、承認されたくて震えているのだ。

 

しかし、肥大した承認欲求に対して、僕という存在はあまりにも平凡でちっぽけ極まりないのが悩みだ。人を引き寄せる才能もなければ、見世物として檻の中で叫ぶ狂人にもなりきれない。ただ、もんもんと承認欲求を抱え続けるだけの日々。きっと凡人の殻を破れない僕のような奴は、おぞましい程沢山世の中に居て、僕らは一生完成することのない承認欲求の永久機関を完成させるべく、今日も痛ましい裸踊りを続けるんだろうなァ・・・と、さっきユーチューブのおすすめ欄に出てきた、中学生ユーチューバ-の動画を見て思った。

 

どうでもいいけどユーチューバ-ってなんか響きがマヌケですよね。もっと承認欲求と自尊心をくすぐる、カッコいい名前があると思うんですよ。どうでもいいんですけどね。

 

400万人に愛される YouTuberのつくり方
400万人に愛される YouTuberのつくり方

お風呂が好きだ、大好きだ

 お風呂が好きだ。

 

 特に友人と一緒に行くお風呂が大好きだ。銭湯でも温泉でもいい。熱ーい風呂に入って、男達だけでアホ面して、ぽかーんと口を開けてぼんやりしてるのが好きだ。

 

 露天風呂に移動して、人生分かったような表情で、それぞれの主観に凝り固まった恋愛論なんかを熱ーく語い合う、あの1ミリも意味のない無駄な時間が好きだ。しばらくそれぞれが言いたいことを言った後で流れる、あの静寂が好きだ。

 

 突然一人が変な音のくしゃみをして、みんなでそれを笑うのも好きだ。下品な奴が無言になったと思うと、突然浮かび上がってくる泡から逃げるみんなの必死さが好きだ。

 

 風呂上りにコーヒー牛乳を飲むのが好きだ。旅館ならビールを飲んで、一瞬でべろんべろんになるのも好きだ。体重計に乗るのが好きだ、でも数字を見るのは少し嫌いだ。足ツボマッサージに乗るのも好きだ。毎回腸の部分が痛くてすぐ降りちゃうんだけど、しばらくしたらまた何故か乗りたくなる。

 

 月に一回何だか寂しい気分になる。そんな時は無理やりにでも人を誘ってお風呂に行く。そんなお風呂に着いてきてくれるみんなが、なんだかんだ言って好きだ。

 

 

アズマ商事の 足ツボマッサージ
アズマ商事の 足ツボマッサージ