ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

霊感が欲しいと思った話

 25日の夜10時過ぎに祖父が息を引き取った。震え声の母からの一報を受け、酒を飲んでいた僕はタクシーで老人ホームに向かった。運転手は僕の落ち着きのなさから何かを察したらしく、車内は終始とても静かだった。

 

 部屋に行くと、そこにもう祖父は居なかった。ベッドには祖父の代わり、酷く作り物のような何かが口を開けて横たわっていた。血の気のない顔をひと目見て分かる。それは完全に死体だった。数十分前に眠るように逝ったらしい。ああ、何かが損なわれてしまったと思った。ここで初めて涙が溢れた。

 

 やがて高齢の医師がやってきて、合掌をする。胸に聴診器を当て、首に指を添える。瞼を広げてペンライトで瞳孔を確認。時刻を確認してそこで始めて祖父は公式な死を迎えた。享年87歳、心筋梗塞脳卒中を乗り越え、随分と長生きしたと思う。晩年は右腕が使えず、失語症によって人とのコミュニケーションが取れず、それでも必死にリハビリをこなし、最期まで全く絶望を見せなかった偉大な人だった。

 

 祖父を迎える準備をする為、家族は先に自宅へと帰った。僕はホールで祖父の死亡診断書をぼんやり眺めながら、葬儀社を待った。色々な事が頭を流れていった。カラカラと車椅子の音がしたので前を向くと、知らない老人が僕の前に居た。認知症を患っているのか、僕の向こう側をぼんやりと眺めている。

 

「何をしているんだ」

 

「いえ、何も」

 

「勉強をしているのか。一体それは何の勉強だ」

 

 死亡診断書を指差しながら問いかけてくる老人の前、僕はとっさに答えようとしたけれど何も言葉が出てこず、涙しながら笑ってしまった。

 

 40分後には葬儀社が来て、祖父をストレッチャーごとワゴンに乗せた。祖父は僕と一緒に自宅へ帰った。

 

 そこから先は、機械的に全てが進められた。通夜と葬式の為のあらゆる手続きが滝のように押し寄せてきて、皆で色々な所に電話をする。

 

 既に主役は祖父ではなく遺族に代わったのだと思った。既に祖父との意思疎通の手段はない。祖父の自我は霧散してしまった。死とは無形で不可避で絶対的なものだ。圧倒的な非日常である死というものを受け入れる為、我々には儀式が必要だった。どこにも繋がっていないコントローラを握りしめながら映画を見るように、死を管理した気になる慰めが必要なのだ。

 

 仏間で白布を頭に被せられた祖父。布を持ち上げると綿とタオルで整えられ、祖父は死を感じさせない死体になっていた。それをジッと見ながら、もしかすると次の瞬間、顔を持ち上げて瞬きをするのではないかと思った。今にも胸が上下するのではないかと思い、一瞬本気でそれを恐れた。

 

 しかし結局、胸の上に守刀を乗せた祖父は、一度も動くことなく骨になった。火葬場はその日貸し切りで、数十年間で初めてだと僧侶が驚いていた。骨を拾いながら、祖父の自我はどこへ行ってしまったんだろうと思った。

 

 僧侶が魂について説法していたが、誰も死んだ事がないのだから確かめようがない。祖父がこの世で学んだあらゆる知識や経験や感情は霧散してしまった。完璧に損なわれてしまったと思った。ただ言いようの無い喪失感があった。

 祖父は大往生と言っても良いほど安らかに逝ったが、生きている人間から全てを取り上げていく死とは、なんて理不尽なのだろう。

 

 せめて僕に霊感があれば、と思った。

 死を経ても何かが残っている事を祖父自身に確かめる術があるのなら、少しはその死を納得出来るのではないだろうか。そう、人が生きている事に意味がある事を、僕は納得したいのだ。

 骨になった祖父は、自身の遺言通りのとびきりの笑顔の遺影と共に帰ってきたけれど、それを祖父自身は喜んでくれているだろうか。

 

 それだけでも確かめられればと、ただ思った。