ロッキン神経痛のブログ

脳みそから出るアレをこぼさずジップロック

ブータン王国へ行った話(2)

 ここで墜落死したら、ちゃんと遺体は見つけてもらえるのか?


 それがブータン国際空港への着陸前、機内窓から外を見た僕の感想。
 機体に5歳児が楽しそうに書いた風なシャチホコ的謎生物をマスコットキャラクターにしている、ブータンの航空会社――ドゥルック航空の機体は、見渡す限りの山の上で大きく旋回を始めていた。

 いや着陸? どこに? こんな山の中で??
 よーく見れば、山に囲まれた谷の底に、確かに滑走路が見えている。いや見えるけども。これフライトシミュレーション系のゲームだったら両翼を持ってかれるタイプのコースじゃん。こんなに不安になる空港は初めてだよ。
 え、本当に降りれるのこれ? いや降りれなきゃ困るんだけど、お、降りれた-っ!

 

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 ケツにドカンと振動を感じながら無事に着陸。
 そしてついに僕達はタラップから降り、ひんやりとした、それでいて綺麗なブータンの空気を吸い込んだ。標高2,000メートルに位置するという世界でも珍しい空港なので、心なしか空気が薄い気もする。

 

 これまた珍しい木造建築の美しい国際空港で、滅茶苦茶ゆるいイミグレーションを通った後、そういえばSIMカードを買うことを忘れていたことに気づく。売店はイミグレの向こう側だ。つまり入国前に買っておけということ。やばい、どうしよう。
 僕達が身振り手振りで何とか購入出来ないかを伝えると、入国管理官の若いブータン人は不思議そうな顔をして、行ってくれば良いじゃん? と指を差した。
 本当にいいの? いいらしい。

 結果イミグレを逆走し、無事SIMカードを買うことが出来た。ちなみに入国管理官の席に置いてあるパソコンには、サポートの切れて久しいXPのロゴが踊っている。
 ゆるい、ゆるすぎる。これが幸せの国の優しい空気感なのか。既に僕は、ブータンに恋し初めていたと言っても過言ではないだろう。言わせて欲しい、君が好きだ。ブータン

 

「ぼくも君が好きだブー」

 

 機体に5歳児がマウスで(しかもウィンドウズペイントで)描いたようなゆるかわマスコットキャラ、ぶーたん(命名)が耳元で囁いた。

 

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 国際空港から外に出ると、そこに待っていたのは俳優の松重豊にどことなく似たツアーガイド。僕達はこれから彼に連れられて、この山奥の小国――幸せの国ブータンを旅するのだ。期待に胸が膨らんでいく。僕は会釈をして言った。

 

「ナイストゥーミーチュー!」

 

 挨拶は大事だ。それが片言のファニーイングリッシュであっても、気持ちが伝わることが大事なのだ。

 

「あ、どうも初めましてドルジです」

 

 日本語喋れるんかーい! しかもペラッペラやないか!
 僕達はその場で両足を上にしてずっこけた。ああ嘘だ。
 キモオタクらしくドゥフドゥフウヘヘと笑った。

 

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 それにしても日本語で会話をしていると、一気に自分達が国外に居る感覚がなくなるから不思議だ。これが日本人の団体ツアーになると、最初から最後までうにょーんと本土から伸びた日本国が足元に存在しているような気にさえなる。19歳の頃、友人と二人で行ったHISの激安パッケージツアーでイタリアへ行った後、人生の中でイタリアと聞くと関西弁のおばちゃん達の顔をまず先に思い出してしまうようになったくらいだ。
 そんな取り留めもないことを考えつつ、流ちょうな日本語で話すドルジさんと雑談を交わす僕達を乗せたセダンタイプのトヨタ車は、谷に位置する空港から出て、更に標高の高い山間の町へとゆっくりと進んでいくのだった。


 つづく

ブータン王国へ行った話(1)

 突然だが2年前の夏の話をしようと思う。

 

 例によってエターナル総書記氏から海外旅行もとい現地指導のお誘いがあったので、僕は二つ返事で快諾した。

twitter.com


 基本的に楽しげな誘いがあったら即断で着いて行くのが僕の数少ない長所だ。勿論短所にもなり得るのは言うまでもないけれど、基本的には満足いく結果に終わることが多い。皆も旅行に限らず、行動する時は尻軽を心がけると良い思う。人生は有限で世界は広大なのだから。

 

 今回の現地指導先は、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国
 特産品が長距離弾道ミサイル。国技が拉致の例の国だ。

 人生初の訪朝は9月に決定。
 2018年の夏、韓国と北朝鮮が急速に融和ムードにあった中、振り返れば後の9月19日には両国政府の首脳が38度線をまたいだ平壌共同宣言までなされることになるように、過去にない平和な雰囲気が半島を包んでいた。
 この時の平壌共同宣言に伴い、長い期間中止されていたマスゲームが再開されるという噂もあったので、観光熱をメルトダウン寸前まで高めていた僕らは大いに盛り上がっていていた。

 なんて、

 ここまで

 つらつら書いてみたけど!
 結果、僕たちは直前で北朝鮮行きを断念することになった。
 行かんのかい。ああ、行かんのだ。
 原因は、8月に北朝鮮観光をしていた日本人男性が拘束されたためだ。
 このニュースが入った瞬間、流石に冷や汗が流れた。
 ちなみに、旅行会社には前金を払ってあり、あとは身一つで行くだけという状況……
 当然脳裏に浮かぶのは、同じように現地で拘束される自分の姿。
 拉致監禁され、炭鉱というアットホームな環境で石炭を掘るだけの簡単なアルバイトに従事する僕! 優しい先生に、マンツーマンで北朝鮮式義務教育を施されて赤化する主体思想信奉者僕!
 NHKでは緊急速報のテロップ、ミヤネ屋デビュー、実家と職場に殺到する取材陣、そして晒される卒業文集。クラスメイトへのウケを狙ったダダ滑りギャグの書かれたあの卒業文集。

 

「あ、悪夢だ……」

 

 常識と狂気の間の子として生まれた僕は、結果として割と大きめの常識の声に従うことにした。

 

「ええっ? 他の日本人観光客は普通に渡航を予定されてますよ」

 

 とはコンダクターのキムさんの談。
 そんな赤信号みんなで渡れば的なこと言われても、急上昇したリスクは減らない。

 

「全部承知の上で行きません!」

 

 渡航まで一ヶ月を切っていたため、前金の10万円は返って来なかった。ぐすん、少し泣いた。

 

「それじゃあブータン旅行に行かないか」
 
 とは、それから数日後の総書記からの言葉。
 申請した長期休暇を持てあましていた僕は、足りないオツムで考える。
 え、ブータン? どこ? なんか響きが可愛い国だな。というのが第一印象。
 なんか90年代のちゃおに連載されてそうな愛称っぽい。『ブータン☆におまかせ!』みたいな。で、調べたところ、どうやらアジア。

 どうやら小国。どうやら国王が猪木に似ている、らしい。
 あーそういえば、東日本大震災の頃にブータン国王が訪日して話題になってたっけ。
ネットで出てくる画像は、日本人と似た顔を持つ、伝統衣装を身に着けた素朴な人々の姿。良い! 面白そう!

 

「行きます」

 

 簡単なやり取りをした数週間後、気づけば僕達はビザを取得して空港へと向かっていた。例によって、物事を始めた後で情熱を追加して勝手に燃え上がっていくミーハーおめでたタイプの僕は、空港に着く頃にはブータンに関する知識や雑学を頭に放り込んですっかりブータン好きになっていた。

 

「拙者、現地に着いたら有名なパドマサンバヴァ国王が瞑想したとされるタクツァン僧院に行きたいぞなもし」

 

 僕は早口でそう呟きながら。エターナル総書記はひたすらにシャンシャンシャンと、iPadでデレステをやりながら離陸。

 

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 海越え山越え谷越えて、途中ベトナムで飛行機乗り換えて、空港での待機時間も含めると片道半日以上の長い空の旅となった。

 その後を暗示するような、あの馬鹿みたいに辛いスープ付きの機内食を食べつつ、機内で白目を剥いた僕たちの眼球が縦3回転半する頃、ついに夢にまで見た王国、ブータンユーラシア大陸のクソ山奥に現れたのだった。


 つづく

バリ島へ行った話

 結婚式が終わり、衣類書類その他脳が認識することを拒むエトセトラに埋もれた我が家に帰ってきた。ああ果てしなく楽しかった。そして疲れた。もう一回やれって言われたら泣いちゃうかも知れない。
 しかし、色々な思い出を振り返る時間はない。行くからだ。
 どこへ?
 インドネシアバリ島へ。
 何しに?
 んなもんハネムーンに決まってんだろ!

 

 翌々日、金沢から成田空港へ深夜バスで。
 じゃなくて部屋の窓を体当たりで壊して、舞空術で成田空港に到着した。途中、「これならこのままバリ島まで行けるんじゃない?」って話になったので航空券はキャンセルして生身のまま国際第2ターミナルから離陸した。パスポートを見せろなどとうるさいことを言う出国管理官は全員殺した。

 

 で、インドネシアバリ島に到着。
 暑い、暑い、想像の12倍くらいバリクソ暑い。名前にインドって付くだけあるなおい。

 

 初めての土地にて乳児のような不安な顔で辺りを見回していると、日本語ペラペラなガイドが手を振って近寄ってくるのが見えた。名前はキューさん。開口一番彼は本日のバリ島の気温が35度だと言った。35度? 半身浴でもしてるの? 耳を疑った。

 

 あ、超余談だけど離陸前にアマプラでダウンロードして飛行機内で見た(前述の設定無視)映画がすっっげー良かったよ!

 「100円の恋」って映画。絶対みんな観た方が良い。万引き家族の嫁役の女優さんが主演。本質的に強い女の話だよ。良いよね、強い女って。男は所詮、どこまでいってもハリボテだからさ。

 

 話を戻すと、バリはクソ暑い。12月だからと思ってユニクロのブロックテックに長袖シャツ、デニム姿で空港に降り立った僕は死を予感した。このままでは炎天下のガリガリ君のように表皮だけを残して身体が全部溶けてしまう。ゆえに僕は望んだ、新しい服を。


 で、やって来たのはウブド市場。相場の3倍の値段(後に分かる)のタクシーに笑顔でお金を払い、降り立った場所で相場の10倍の金額(後に分かる)を提示する土産物屋と交渉。ベテラン旅人としての天才的手腕で相場の3倍の値段(後に分かる)まで下がったシャツを2着買った。僕は何ともお買い物上手なのだ。
 さっそく配偶者と共に新しい服に着替えた。余談だが、この服は後に洗濯を共にした白シャツを青く染めることになった。
 で、キューさんにお願いして地元の相場の5倍(後に分かる)くらいの高級レストランに連れて行かれてランチを食べた。ここのミーゴレンがウルトラ美味しかったので、僕はバリ人になろうと思った。高いレストランなだけあって、後にここを越えるミーゴレンは食べられなかったが、ミーゴレンの基本満足パラメータは高い。
 後にインスタントミーゴレンをお土産に買って帰った。今後の人生で主食にするためだ。
 
 勿論、美味しかったのはミーゴレンだけじゃない。バリはグルメの宝庫だ。海に囲まれているからか、海鮮は新鮮で美味しい。各地にインチキでない寿司屋も多かった。どこから輸入してくるのか、各地にはステーキ屋が溢れ、KFCバーガーキング(重要)まで出店してきている。(ちなみにチキンには必ずおにぎりが付いてくるのがインドネシアの常識らしい。笑う)しかし何より、ここは南国。南国といえばあれが美味い。

 

 そう、フルーツジュースである。
 ……あれはまだ、20歳くらいの頃に行った真夏の台湾だった。

 脳が熱に焼かれ体が脱水症状を訴える中、道端のスタンドで飲んだマンゴージュース。あれに出会って以来、僕は南国に行くとフルーツジュースを求めてしまう体質になってしまっている。

 故に今回も配偶者と共に、マンゴージュースを、スイカジュースを、グァバジュースを、ミックスジュースを、飲んで飲んで飲みまくった。そして、当たった……!

 

 下腹が少しだけ痛い、そして空腹にも関わらず満腹感がある。

 つまりは腹が張っている。
 これは今まで複数回経験した食中毒の症状と同じだ。主に発展途上国でアイスとフルーツジュースを飲むと窓に小石を投げてきて遊びましょーとやってくるお友達がやって来た合図だ。
 今回もすぐに分かった。「よお、久しぶりだねえ」腹をさすると食中毒くんが内側から手をぶんぶん振っているのかズキズキと痛んだ。

 

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 配偶者は初めての食中毒に苦しみ、ほぼ気絶していた。

 とにかく休むことに努めて、持参した薬も飲んだ。完全回復までには丸2日程かかった。バリ島ではこれをバリ腹と呼ぶらしい。どうやら島の洗礼を受けてしまったようだった。

 

 そんな洗礼もあった上、11日間の旅程だと、徐々に疲れが溜まってくる。ハネムーンきっかけで結婚したばかりの夫婦が別れる成田離婚なんて言葉があるけれど、周囲と言葉も通じない場所で長期間一緒にいればそれなりのトラブルやストレスがあるのも当然だ。

 例に漏れず僕達もバチバチと何度か火花を散らし、一時はすわ第三次世界大戦かと思われたが、同じホテルに宿泊していた富裕層のアメリカンがメタボリックな腹を揺らしながらビール片手に楽しげに踊っている姿を見て、心に最終的なフロンティアが訪れた。

 

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 その他ここに書き切れないものを見て、味わってきた。かつてキューバのリゾート地でGoProとiphone6を無警戒で盗まれた経験のあるクソ馬鹿こと僕は、今回新調したばかりのiphon11を手に警戒心を剥き出しにしながら現地に入ったが、どこに行ってもバリ人達は穏やかで明るく、そして優しい人ばかりだった。

 勿論、中には胡散臭いやつも一定数居るけれど、そんなの世界中どこも同じだ。途中から僕は必要以上の警戒心を解いて、ホスピタリティと良い意味での田舎臭さの残るバリの人々と積極的に交流をした。皆がバリを好きになるのが分かる。そんな素晴らしい土地だった。これからも続く人生の圧と日本の肌寒い冬を忘れさせる楽しい旅になったと思う。

 

 で、旅の最終日に爆買いしたお土産類を両手いっぱいに持って、2人で舞空術で帰って来た。ぐっちゃぐちゃの部屋に荷物を投げ出すと散らかった部屋の情報量が更にハネ上がってしまったけど、これはこれで悪くないと思っている。今はそんな気分だ。

結婚しました。

 突然ですが、先日結婚しました。

 ええ、本当にありがとうございます(先回り謝辞)

 少規模ながら式場を借りて挙式と披露宴も行いました。

 で、式の準備中に何度も頭に浮かんだのは「若い時の苦労は買ってでもしろ」という古いことわざ。僕はこの言葉、昔からお前どんだけ大上段からもの言ってんのいう押しつけがましい感じが嫌いだったんですけど、安くない金額をかけた式の準備期間(苦労)は、お互いの価値観のすり合わせや、ストレスへのキャパシティを図る意味でも非常に有用で、値段なりに価値ある苦労になったと思います。ちゃんと意味あること言ってるよ、昔の人。

 準備は楽しいばかりじゃない。そんなことはみんな知ってる。結婚式って、糖衣に包んだ苦い薬のようなものなんでしょう。

 連日続く雨も、当日だけぴたりと収まってくれて、一日中晴天が続きました。さんきゅーごっど。空に敬礼しました。

 おかげさまで、当日は大変に楽しいものになりました。そして自分でも意外だったのが、終わった翌日に感じる寂しさ。

 あれだけ早く終わってくれと願った苦しい準備期間も、その間に感じたプレッシャーも、最後にみなさんの祝福という分厚い糖衣に包まれてどこか遠くへ行ってしまいました。

 これまでも散々好き勝手やってきましたが、何だかんだ周りの人に恵まれているからこその好き勝手で、僕は実に幸せ者だったんだなと思いました。

 改めて、現地でお祝いしてくださった友人たちと、懇意にしてくれたプランナーのHさん。そしてツイッターでお祝いの言葉を下さった方々には感謝してもしきれません。

 皆さん、本当にありがとうございました。

 足りないところも依然多いですが、僕も人生やっていきます。

お久しぶりです

 1年と10ヶ月。

 賢明なる読者さま方にはこれが何の期間であるか分かりますでしょうか。

 はい、驚くことにブログ更新が停止していた期間です。

 

 おぎゃあと生まれた我が子がまだ掴まり立ちをしないと世の両親達が焦り始める期間。中2の夏休みに一生一緒生涯お前を愛すと誓った片田舎のイキリ中学生カップルが、高校進学で都心部に通学するようになったのを機に、恋人にジャリ臭さを感じて別れを切り出すまでの期間。最近調子の悪かったお爺ちゃんが風邪をこじらせて肺炎にかかったのをきっかけに施設に放り込んだ結果、元々怪しかった認知力にエマージェンシーが灯り介護認定を受けるまでの期間。

 それが一般的な1年と10ヶ月でございます。

 

 その長い間、僕が何をしていたかと言いますと。

 

 ……とくになにもしていません。

 

 いえ、きっと思い返せば沢山のことがあったと思うんです。でも大人になるにつれ年月が光速で過ぎていくせいで脳のメモリが追いつかない。体感のテンポがツイッターばりの早さで過ぎていく日常をつなぎ止める術を僕は知らない。あとかんがえるのめんどくさい。

 諸々の理由で、ブログを更新していませんでした。

 

 思い返せば最後の記事は、著作である限界集落オブザデッドが発売されたという話で終わっていました。あの時はピタゴラスイッチ的偶然と奇跡が起こって処女作が著作になり、賞金やら印税やらが入ってウハウハのハーだったことを覚えています。(遠い目

 いやぁしかし、いまいち売れなかったな!!

 無論、担当も僕も全力を尽くしました。

 特に僕はズブのど素人だったので、漢字の間違いなんかもハチャメチャに多い上、格好つけて書いた表現のそれ自体の使い方が間違っていたりしたので、ゲラ原稿越しにボンテージを纏った校閲ガールに鞭を片手に罵られる幻覚が見えるまでお直しをするはめになるなど、まあ、編集各位にほうぼうにお世話になりまくって、必死の思いで完成させた次第です。いや本当に皆さんありがとうございました。

 きっと僕の力不足……いや時代が早すぎたんでしょう!!(断言)

 1ミリの反省と1ガロンの興奮を胸に、今も血涙を流しながら小説には向き合っています。俺たちの輝かしい明日はこれからだぜ!先生の次回作にご期待ください!

 

 さて、ここまで書きながら1年と10ヶ月を振り返っていたら、色々と思い出してきました。というかめちゃくちゃ思い出、ありました。失われていた記憶の蓋が今開きました。コレガ……ココロ……? 僕のハイライトの消えた目にわずかな光りが灯ったところで、忘れないうちに箇条書きにしておこうと思います。これを元にまたブログを書いていけたら良いな! きっと約束だよ? うん!

 

失われた1年10ヶ月の出来事一覧

・エターナル総書記と一緒に北朝鮮渡航しようとしたけど、色々あってブータンに行く。

・仮想通貨で大爆死、頭を風呂場の壁に打ち付けながらマジ泣き。

ツイッター凍結される。

ツイッター再び凍結される。

・台湾に行って魯肉飯の食べ過ぎで5キロ太る。

・自宅マンションのあらゆる箇所から雨漏り、それでも僕はここに住む。

・小説の書き方が分からなくなる。というか何で一度は書けたのお前? という迷路に迷い込んで20万字の無を生み出す。

・2回の健康診断でLDLコレステロール値が高いから再検査しろって言わてるんだけど何か怖いから行ってない。ほらネットでも全然大丈夫って書かれてるし大丈夫だよね?

 

 ア……ココロガ……キエテ……

 以上、通信終了。オーバー。

著書『限界集落・オブ・ザ・デッド』が発売された話

 前にも少し話したのだけれど、第2回カクヨムWeb小説コンテストのホラー大賞を受賞したことにより、ついに僕の著書『限界集落・オブ・ザ・デッド』が発売されることになった。

 

 人生に一度しか訪れない、処女作の発売日は平成29年12月10日となった。

 

 僕はその日の前日、近所のバーで看板猫を撫でながら気が狂うまでワインを飲んでいたせいで、当日は炬燵の中でうんうんと唸り続ける獣と化していた。昼過ぎには意識も現世に帰ってはきたのだけれど、部屋のカーテン開けたら外は雨だし……あとなんか寒いし……という止むを得ない理由から翌日の11日に本屋に行くことにしたのだった。

 

 翌日、一番近い本屋へ行き、意気揚々とカドカワBOOKSの書棚へ僕は向かった。仁王立ちをして上から下まで眺め見るが……あれっ?……無い。

 

 僕の本が、無い。

 

 圧倒的完膚なきまでに無い、無いったら無いのだ。

 

「あ、田舎だから入荷日が遅いのかもな」

 

 首を小刻みに縦に振りながら自分を納得させようとする僕だったが、うつろなその目に 「デスマーチからはじまる異世界狂想曲12巻」(同日発売)が入ってしまった。

 

 ……バ、バカな!! 僕は怒りに震えながら、電子端末でロッキン神経痛と検索した。(我ながらバカみたいなペンネームだと思う。)そして現れた著書を選択し、予約表を出してレジに持参した。

 

「あ、あのぅ、スミマセン。この、限界集落なんとかって本は、まだ入荷してないんですか?」

 

「調べてみますね……あぁ、うちでは入荷はしないみたいです」

 

 畜生!いくらカドカワBOOKSがちょっと一般ラノベと毛色の違うことを押し出した四六判オシャレレーベルゆえに、陳列数に限りがあるからって、売れ筋の新刊だけを入荷するだなんて。こんな不条理があっていいはずがないと、僕は目を大きく見開き、申し訳なさそうに眉毛を八の字に曲げている若い女性店員に向かって言った。

 

「アッ、ソッスカ、サーセン」

 

 こうして僕は、うつ◯みや書店金沢香林坊店を後にすると、数週間前に書いた特典掌編を確認する為にア◯メイト金沢に向かった。

 

 天下のア◯メイト様は、流石にラノベに力を入れているだけあって、入り口を曲がってすぐ右に新刊コーナーがあり、そこに平積みされた著書を確認することが出来た。僕は、カクヨム発の同期であるクオンタムさんの「勇者、辞めます ~次の職場は魔王城~」と共に並べられた自分の本を前にして……しばし沈黙してしまった。

 

 その後、ゆうやめとオブデを持ってアニメイトのレジに向かった。アニメイトで買い物をするなんて、同ビル内にあるメイド喫茶に通っていた時以来だ。あの時見た数々の表紙の中に、自分の本があるということがとても不思議な気分がする。

 

 人生何が起こるか分からないと言うけれど、身内向けにノリのままに書いていた自分の小説が、こうして本屋に並ぶ人生もあるのだろうか。

 

 今まで世間に中指を立てつつ、世の暗い所にばかり焦点を当て続けてきた僕だけれど、最近では沢山の人の縁と、顔も知らない読者の方々から受ける善意に感謝ばかりしている。

 

 というのも、きっと世の作家は皆経験することなのかもしれないが、一冊の本が出来るまでには、編集者、校正者、イラストレーター等々、沢山の人々の時間と労力が注がれており、その中心人物となる作者は、皆の力あっての出版であるという事実を強く実感せざるを得ないのだ。

 

 つまり、もはやこの作品は自分1人だけのものではない。それは読者も含め、関わってくれた全ての人々の間の共有物と言って良いものなのだ。ちょっとした僕の妄想から始まった作品が世に放たれたことに、感謝を覚えない訳がないだろう。

 

 この日レジで受け取ったレシートは、僕にとって捨てられないものになった。

 

 そしてやっぱり、なんだか照れくさい気になって、数日経ってもまだ、自分の本のビニルは破けないでいる。これから売れるかどうかは分からないけれど、時間が経って落ち着いたら、自分の本を恥ずかしがりながら読もうと思う。今はただ、そんな気持ちだ。

 

 

霊感が欲しいと思った話

 25日の夜10時過ぎに祖父が息を引き取った。震え声の母からの一報を受け、酒を飲んでいた僕はタクシーで老人ホームに向かった。運転手は僕の落ち着きのなさから何かを察したらしく、車内は終始とても静かだった。

 

 部屋に行くと、そこにもう祖父は居なかった。ベッドには祖父の代わり、酷く作り物のような何かが口を開けて横たわっていた。血の気のない顔をひと目見て分かる。それは完全に死体だった。数十分前に眠るように逝ったらしい。ああ、何かが損なわれてしまったと思った。ここで初めて涙が溢れた。

 

 やがて高齢の医師がやってきて、合掌をする。胸に聴診器を当て、首に指を添える。瞼を広げてペンライトで瞳孔を確認。時刻を確認してそこで始めて祖父は公式な死を迎えた。享年87歳、心筋梗塞脳卒中を乗り越え、随分と長生きしたと思う。晩年は右腕が使えず、失語症によって人とのコミュニケーションが取れず、それでも必死にリハビリをこなし、最期まで全く絶望を見せなかった偉大な人だった。

 

 祖父を迎える準備をする為、家族は先に自宅へと帰った。僕はホールで祖父の死亡診断書をぼんやり眺めながら、葬儀社を待った。色々な事が頭を流れていった。カラカラと車椅子の音がしたので前を向くと、知らない老人が僕の前に居た。認知症を患っているのか、僕の向こう側をぼんやりと眺めている。

 

「何をしているんだ」

 

「いえ、何も」

 

「勉強をしているのか。一体それは何の勉強だ」

 

 死亡診断書を指差しながら問いかけてくる老人の前、僕はとっさに答えようとしたけれど何も言葉が出てこず、涙しながら笑ってしまった。

 

 40分後には葬儀社が来て、祖父をストレッチャーごとワゴンに乗せた。祖父は僕と一緒に自宅へ帰った。

 

 そこから先は、機械的に全てが進められた。通夜と葬式の為のあらゆる手続きが滝のように押し寄せてきて、皆で色々な所に電話をする。

 

 既に主役は祖父ではなく遺族に代わったのだと思った。既に祖父との意思疎通の手段はない。祖父の自我は霧散してしまった。死とは無形で不可避で絶対的なものだ。圧倒的な非日常である死というものを受け入れる為、我々には儀式が必要だった。どこにも繋がっていないコントローラを握りしめながら映画を見るように、死を管理した気になる慰めが必要なのだ。

 

 仏間で白布を頭に被せられた祖父。布を持ち上げると綿とタオルで整えられ、祖父は死を感じさせない死体になっていた。それをジッと見ながら、もしかすると次の瞬間、顔を持ち上げて瞬きをするのではないかと思った。今にも胸が上下するのではないかと思い、一瞬本気でそれを恐れた。

 

 しかし結局、胸の上に守刀を乗せた祖父は、一度も動くことなく骨になった。火葬場はその日貸し切りで、数十年間で初めてだと僧侶が驚いていた。骨を拾いながら、祖父の自我はどこへ行ってしまったんだろうと思った。

 

 僧侶が魂について説法していたが、誰も死んだ事がないのだから確かめようがない。祖父がこの世で学んだあらゆる知識や経験や感情は霧散してしまった。完璧に損なわれてしまったと思った。ただ言いようの無い喪失感があった。

 祖父は大往生と言っても良いほど安らかに逝ったが、生きている人間から全てを取り上げていく死とは、なんて理不尽なのだろう。

 

 せめて僕に霊感があれば、と思った。

 死を経ても何かが残っている事を祖父自身に確かめる術があるのなら、少しはその死を納得出来るのではないだろうか。そう、人が生きている事に意味がある事を、僕は納得したいのだ。

 骨になった祖父は、自身の遺言通りのとびきりの笑顔の遺影と共に帰ってきたけれど、それを祖父自身は喜んでくれているだろうか。

 

 それだけでも確かめられればと、ただ思った。